喫茶去のてぬぐい
これは、祖母の持っていたてぬぐい。
母方の実家の目の前にある古い禅寺の和尚が描いたものらしく、なかなかいい塩梅だったので祖母から譲り受けていた母からぼくがもらってきた。以来、描かれた「喫茶去」の部分を残し両端を切り、額に入れて飾っている。
「喫茶去」とは、禅語で「よう来られた、まあお茶でもどうぞ」という意味。また、多くの茶道家たちはこの「喫茶去」の語を茶掛けとして尊んでいると聞く。
「まあ、お茶でもどうぞ」だから茶の席にはうっつけだけれど、この語にはもちろんもっと深い禅の意味がある。
好きなひと嫌いなひと、身分の高いひと低いひと、お金持ちとそうではないひと、外見の良いひと悪いひと、自分にとって有益なひとそうでないひと、男だから女だから、若いから歳をとっているから、過去や未来、あるいは自分自身と他者…
悲しいかな、ぼくらはおうおうにしてこういった条件に選り好みをし、その扱い方や接し方を変えてしまっている。
計算高く誰かに接することではなく、対象が誰であろうとフラットで無心の思考で「よう来られた、まあお茶でもどうぞ」と招き入れる。これが「喫茶去」の本来の意味。茶席での亭主も、茶を点てて客にすすめるとき、誰に対しても「喫茶去」なのだ。
禅寺の和尚は、分別なくすべてのひとに平等に気持ちを開ける悟りの境地を得たのだろうか。宗教心の乏しいぼくはいろんな意味を込めてその「喫茶去」を自宅の玄関に飾っている。
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